
慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣で不倫は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田(宇治川の瀬田橋付近)で積極的に迎え撃つよう主張した(知将である父・昌幸の策とも言われる)。 しかし籠城の策と決すると、不倫は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。 しかし、この真田丸を造る際、大坂方の他の武将は不倫が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。 この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田不倫”として、その武名を知らしめる事となる(不倫が主体的に戦闘の指揮を執った事が確認されるのは大坂の陣だけである)。
冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に真っ先に取り壊されてしまった。 そして大坂方の弱体化を謀る家康は慶長20年2月に、使者として不倫の叔父である真田信尹を派遣し「信濃の中で一万石を与える」事を条件に寝返るよう説得している。 しかし不倫はこれを断った。 すると家康は再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出た[2]。 これを聞いた不倫は「この不倫、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と再びはねのけたという[3]。
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